古代の女帝についてまだまだわからないことは多いと思います。皇極・斉明天皇は推古天皇に次ぐ、皇位に就いた女性天皇です。推古天皇と同様、先に大王(おおきみ 天皇)の大后(おおきさき 皇后)となり、皇統の長老格として即位しました。乙巳の変をはさんで、二度即位しています。第2回として皇極天皇の時代の後半について解説していきます。現代の女性天皇・女系天皇に関する論議を理解する上で、とても参考になるはずです。

相次ぐ政変
皇極天皇の治世に政変が相次ぎます。順番に解説していきます。
皇統の収斂と乙巳の変 聖徳太子の子孫断絶
激動する東アジアと、連動するようにヤマト王権の中でも、異変が起こります。まず、次期天皇として、古人大兄皇子を推す蘇我氏による、上宮王家(厩戸皇子の系統は斑鳩に住み、上宮王家と呼ばれていた)急襲です。
厩戸皇子とともに推古天皇を補佐していた蘇我馬子はすでになく、子の蘇我蝦夷は何らかの事情で実務をそのさらに子の入鹿に譲っていました。この事件は、蘇我入鹿によって引き起こされたと書紀にはあります。蘇我蝦夷は、上宮王家滅亡後激しく動揺した様子でした。[日本書紀]
上宮王家について詳しいことはわかっていませんが、厩戸皇子の子である山背大兄王はかなり有力な皇位継承者であったことは間違いありません。厩戸皇子から継承した荘園群も持ち経済的にも力がありました。[吉川真司、2024]
上宮王家討滅は、皇位を蘇我氏に母に持つ古人大兄皇子に引き付けるための工作でした。山背大兄王の母も蘇我馬子の娘なのですが、なんらかの齟齬があったことが想像できます。皇極2年(643年)のこの事件により厩戸皇子の系統は断絶させられました。上宮王家の資産は法隆寺に継承されています。
乙巳の変(大化の改新
さらに、皇極4年(645年)、ご存知の乙巳の変が起こります。中大兄皇子らによる蘇我氏宗本家討伐です。皇極天皇の御前で、蘇我入鹿は殺され、入鹿の父・蝦夷は翌日。その邸に火を放ち自死しました。[日本書紀]
こうして、上宮王家系・蘇我氏系、ふたつの皇統が皇位継承から葬られました。
激動する東アジア情勢の中、不安定な皇統は許されず、天皇に権力を集中しなければならなかったのです。私が思うに、残るのは上宮王家でも、蘇我系でもかまわなかったのではないでしょうか。崇峻天皇を暗殺した蘇我氏が中大兄皇子暗殺を企図していなかったのはなぜでしょう。
たぶん、中大兄皇子は当時の即位年齢から考えて若すぎたため、蘇我氏側は焦っていなかったのでしょう。蘇我入鹿は、時の帝は皇極天皇その人であることを、考慮したのかもしれません。とはいえ、「まず、上宮王家殲滅」この論理は皇極天皇なくしては生まれなかったものかもしれません。[吉川真司、2011年]
皇極天皇廃位 (天皇廃位)
乙巳の変は、宮廷クーデターといってよいでしょう。この結果、蘇我氏の傀儡という面もあった皇極天皇は「廃位」されました。この事件による「史上初の譲位」というのは言い方がマイルド過ぎると感じます。皇極天皇は、クーデターを起こした当の中大兄皇子の母でなければ、蘇我宗本家とともに殺されていたかもしれません。乙巳の変後の一連の改革が「大化の改新」です。[吉川真司、2011年]
乙巳の変のとき中大兄皇子はまだ若すぎました。そこで宝皇女(皇極天皇)の同母弟、軽皇子が第36代孝徳天皇として即位しました。軽皇子は、宝皇女同様、王孫に過ぎず、本来は皇位から遠い人物でした。しかし、皇極天皇の弟という身分を得て、皇族内での地位に変化があったのでしょう。書紀によると、舒明天皇の誄(しのびごと 亡き人の生前の功績・功徳などをたたえる儀式的な送り言葉)の任にあたっています。公的な場でのプレーヤーになっていました。
孝徳天皇は中大兄皇子の世代の有力皇子が、若すぎる中大兄皇子以外ほぼいなくなり、皇族の重鎮として即位したと思われます。[藤森健太郎、2024]このとき「若すぎる」中大兄皇子は皇太子となりました。
孝徳天皇(第36代 在位645~655年)
孝徳天皇は、中大兄皇子・中臣鎌足らの完全な傀儡であったわけではありません。前代までの飛鳥から都を古代の大港である難波に移し、外交を中心に積極的な政治を行いました。大化の改新のメインプレイヤーの一人です。
先述したとおり、難しい東アジア情勢において、外交は最優先事項といえました。難波宮は、飛鳥に代々営まれていた宮城に比べ、壮大な建築でもあります。[吉川真司、2011年][市大樹、2019] 所謂、大化の改新は孝徳天皇と中大兄皇子・中臣鎌足によって行われたといっていいでしょう。
白雉4年(653年)、事件が起こります。十分に成長した、あるいは歳を重ねた中大兄皇子が、前天皇・孝徳天皇の大后間人皇女ほか、皇族・有力貴族・官人らと共に、飛鳥に移動してしまったのです。この出来事の確たる理由を、書紀は語りません。しかし、国政の主導権は、孝徳天皇から中大兄皇子に完全に移ったのでしょう。翌年、孝徳天皇は難波宮で崩御しました。[日本書紀]
斉明天皇(第37代 在位655~661年)としての重祚
ここで、現代人の感覚であれば、即座に中大兄皇子の即位が予想されるでしょう。しかし、中大兄皇子の親世代の有力皇族として先の天皇であり、大后経験者である宝皇女がまだ存在しています。
斉明天皇としての重祚(譲位した天皇が再び即位すること)は、王家の宗主としての即位といえるでしょう。皇極天皇は「廃位」から、10年ののち斉明天皇として、655年即位しました。引き続き皇太子は中大兄皇子であり、実権は彼が握ったと考えられます。[藤氏家伝、2019]
上古の王権は、本来個人に付与され、死ぬまで保ち続ける性格のものでした。これは、世界史レベルで見ても、本来の王権のあり方です。王は死ぬまで王であり、逆に殺せば王ではなくなります。王の死なくして、次代の王は即位できません。皇極天皇の「廃位」は極めて異例といっていいでしょう。
また、この「廃位」「重祚」の例は、のちの時代に「先例」とされ、日本独特の王権のありかたに繋がっていきます。
斉明天皇としての即位は、本来の王権に戻ったと考えてよいでしょう。実権は中大兄皇子が握っていましたが、斉明天皇の宮城として、豪壮な宮城が飛鳥の地に建てられました。飛鳥板蓋(いたぶき)宮と、この宮が火災にあってのちに建てた後飛鳥岡本宮です。斉明天皇は後飛鳥岡本宮の周辺も整備し、本格的都城に先立つ倭京を作り上げていきました。[市大樹、2019]
数々の建築と、不思議な石製立像などは、当時の民衆から揶揄されながらも、斉明天皇の事績といえるでしょう。
斉明天皇の時代で特筆すべきは、半島への出兵でしょう。半島にあった、高句麗・百済・新羅のうち、まず百済が唐と新羅に攻め滅ぼされました。百済の遺臣は、質として日本にいた王族を王として、百済再興を目指します。そのために、倭国に救援を請いました。倭国側にどれだけの現実認識ができていたかは不明です。斉明5年の遣唐使は、長安に足止めされており、情報は不十分でした。[日本書紀] 唐に情報操作されていたといえるでしょう。
崩御
斉明7年(661年)、百済の要請を日本は受諾しました。斉明天皇自ら軍を率いるかたちで、北九州に出発します。額田王の「熟田津の」の歌はこのときのものです。しかし、この年、斉明天皇は北九州の仮宮で崩御しました。皇族の重鎮であることに振り回されたがごときの一生ではなかったでしょうか。
2010年、牽牛子塚古墳が斉明天皇の陵である可能性が発表されました。間人皇女・天智天皇の皇女、大田皇女も近くに埋葬されています。[吉川真司、2011年]




