持統天皇(3)即位とその事績

持統天皇の事績

書紀には、持統天皇の事績が多く記載されています。戸籍もそのひとつでしょう。天智天皇の時代に「庚午年籍」が最初の戸籍として作られたとされるが、不完全なものであったようです。[大津透 2017]そこで、持統元年(690年)に、律令の戸令に基づいて戸籍を作ることが命じられました。庚寅年籍と呼ばれるものがそれです[日本書紀]。

これ以降、6年ごとに戸籍は作られ、飛鳥浄御原令に準じて、戸籍に応じて口分田が配給されるようになりました。この時の戸籍は残念ながら資料として残っていません。しかし、次の大宝律令は一次資料が存在しています。[正倉院文書正集、1990] これら戸籍の作成のため、地方文官まで文字を使用しなければならなくなり、文字文化の広がりにも大きな影響を与えました。[鐘江宏之 2020]

筆者には、律令と戸籍について、ひとつ注意を促したい点があります。律令・戸籍は唐の制度に倣ったものでした。にもかかわらず、女性の地位が大陸とは違い、かなり高いという点です。男性の2/3とはいえ、口分田は女性にも与えられています。男性には別に、徭役(労働力・戦力としての義務)があったことを考えれば、ほとんど平等といっていいでしょう。

持統天皇は、貧民の救恤・天災時における税と利子の減免・罪人への大赦などを行いました。壬申の乱と大津皇子を除いた際に、民衆は激しく動揺したため、これらの宥和政策を執ったのかもしれません。また、柿本人麻呂を宮廷歌人とし、多くの天皇を崇める歌を作らせています。[万葉集 2009] さらに、天武天皇時代からの懸案であった、藤原宮都造宮も引き続き牽引し、遂に持統5年(694年)に、その日本初の条坊制宮都に移っています。[市大樹、2019]

持統天皇は、上古の国見に倣ったかのように、御幸を頻繁に行いました。夫・天武天皇の偉業を世に改めて知らしめるためか、皇族に盟約を再認識させるためか、あるいは思い出の地であるからか、吉野への頻繁な御幸が目立ちます。[日本書紀] 吉野はまた、アニミズム的要素もあり、道教・神仏習合の聖地でもありました。

書紀によれば、吉野以外にも、伊勢国・伊賀国・志摩国・紀伊国にも御幸があったようです。万葉集によれば、近江にも御幸しています。[日本書紀] [万葉集]

筆者は、持統天皇を実際、偉大な君主と考えています。ここまでに述べた業績だけでも、見事なものです。大津皇子を退け、飛鳥浄御原令に則り政治を行いました。亡き夫、天武天皇の計画にある程度、沿っているとしても、その手腕は相当なものでした。

伊勢神宮の式年遷宮(ただし、この時期はまだ内宮のみ)が行われるのも持統期からです[日本書紀]。これも、天武天皇の宿願でした。[日本書紀]

持統天皇即位までは、それまでの皇女→皇后→天皇、という前代までの皇位継承ルールにある程度則っています。皇太子とみなされた大友皇子、実際皇太子であった草壁皇子が即位できなかったのは、その早期の死もありますが、年齢等、条件が揃っていなかったともいえるのですから。

持統天皇(2)天武天皇亡き後

即位

春過ぎて 夏きにけらし 白妙の 衣干すてう 天の香久山

天武天皇の崩御後、草壁皇子の即位は、簡単ではありませんでした。まず、天武天皇の第三皇子、皇后の同母網所生の大津皇子が非常に優秀であったことがあります。編纂時期から持統=草壁を忖度していたはずの、書紀の編者たちが、記し置くほどの優秀さなのでした。文筆を愛し、詩賦が盛んになったのは彼からだ、とまで書かれています。[日本書紀]

そこで、鵜野皇后が動きます。書紀には、大津皇子が皇太子に謀反を企て、死を賜ったと記されています。[日本書紀]

さらに事態は変動していきます。偉大だった前天皇、天武の葬送の儀式を長く執り行っている過程で、草壁皇子が亡くなってしまいました。持統(称制)3年、27歳での若すぎる死です。[日本書紀]

この時点で、天皇の詔として残っているのは、故天武天皇の「皇后と皇太子に政務を任せる」というもので、国政の主権は皇后であった鵜野皇后ひとりにあったといえます。壬申の乱を勝利した天武天皇を補佐した、高市皇子は卑母を持つため即位できず、ここに鵜野皇后が持統天皇として即位することとなりました。

持統天皇は天武天皇が病床にあったときから、国政の実権を握っていたのであり父は天智天皇。実績も申し分なく、最有力皇族であったともいえます。この時代の皇后は、ヒメヒコ制の名残も色濃く、平安時代の皇后のように後宮の奥深くにいたわけではありませんでした。先の述べたように、皇后は天皇と同列に詔を出す立場だったのです。[日本書紀]

持統天皇は即位に先立ち、天武天皇が制定を命じた飛鳥浄御原令を施行しています。飛鳥浄御原令の中で、初めて「天皇」号が記載されており、持統天皇の時代までに天皇号がポピュラーなものになっていたことが確認できます。[日本書紀]

律令と天皇については、ひとつ注意が必要でしょう。律令はあくまで皇族・貴族・庶民の法であり、天皇と皇位継承を拘束することはないという点です。[藤森健太郎、2024年] [大津透 2013] これまで、基本的に群臣の推戴を必要としてきたことを考えると、王権の高まりを感じます。

薬師寺
薬師寺

持統称制5年(690年)正月、持統天皇即位儀が行われました。書紀には、天武天皇の即位儀とともに、詳細な記録が残されています。飛鳥浄御原令を受けてか、天武時から大きく儀式は刷新された様子が書記に書かれています。新たな皇統をうたい上げるかのごとく。持統天皇は実力で即位したのです。

即位後、持統天皇は天武天皇の最年長の皇子であった高市皇子太政大臣に、丹比嶋真人を右大臣に任じました。太政大臣の任命は、史上、天智期の大友皇子以来ふたりめです。

太政大臣は、唐の三師に倣ったもので、皇太子と同等の権力を持っていたとされます。その任命は、のちの大宝律令によると「その人なければすなわち闕けよ(かけよ)」(適当な人物がいなければ、太政大臣をおかなくてよい)とされ、高市皇子の地位が非常に高かったことを示すといえましょう。[大津透 2013]

なお、太政大臣の地位や権力については、時代によって変遷していきます。皇太子に準ずる場合もあれば、名誉職である場合もありました。

壬申の乱での、高市皇子の功績は大きく、書紀にはさらに彼の有能さを指す文章が度々表れます。[日本書紀]

この時期、持統天皇は皇太子を定めていません。「皇太子制」は、壬申の乱も含めた皇位を争う騒擾を防ぐ制度ですが、持統天皇は自身と天武天皇の皇統にのみ皇位を限定したかったのです。

つまりは、孫である草壁皇子の子、軽皇子の立太子を望んでいましたが、この時代、幼児を皇太子にすることはできません。皇太子に準じる権力を高市皇子に許し、立太子は先延ばしにしました。もし、持統天皇の寿命が早くに尽きることとなっていたら、高市皇子の即位もあり得たかもしれません。

持統天皇 天武天皇とともにあった女性天皇

持統天皇のイラスト

天武天皇の即位まで

持統天皇は諱(いみな)を鵜野讚良皇女(うののさららのひめみこ)といい、天智天皇と蘇我倉山田石川麻呂の娘、越智娘(おちのいらつめ)の子として生まれました。同母姉に大田皇女がいます。大田皇女も、天武天皇と結婚しています。持統天皇は、享年からの計算で、斉明1年・大化元年(645年)の生まれとなります。即位前の天武天皇のキサキとなり、やはりその即位以前に草壁皇子を産みました。[日本書紀] この、草壁皇子の、キサキや子孫が奈良時代の皇統の主流を歩みます。

鵜野皇女は、天武天皇が即位すると間もなく、皇后に立てられました。卑母から生まれた高市皇子に次ぐ、第二皇子草壁皇子の母であったこと、天智天皇の娘であったこと、蘇我氏の後見があったことなどが皇后とされた所以でしょう。

同母姉に天武天皇のキサキとなった大田皇女がいましたが、第三皇子大津皇子と天武期に伊勢斎王となる大来皇女を産んだものの、早くに亡くなっています。このことも、鵜野皇女を皇后位へと押し上げる要因となりました。

なお、天皇号・皇后号・皇太子号の成立が確実視される、この項より大后を皇后と呼ぶことにします。大后には、皇族しかなることができませんでしたが、この先、皇后には藤原氏をはじめとした、臣下の女性が就くこともあります。

鵜野皇女は大海人皇子時代の天武天皇に従い、半島への出兵の際には北九州に、壬申の乱当時も常に側にいたといわれます。大海人皇子の信任の特に厚いキサキでした。

天武天皇のイラスト

天武天皇の時代

天武2年(673年)大海人皇子が大友皇子を下して、即位すると、鵜野皇女は皇后に冊立されました。[日本書紀]

書紀によると、天武8年(679年)の「吉野の盟約」を経て、天武10年(681年)には、皇后である鵜野皇女の子草壁皇子が立太子します。天武天皇は晩年病みついたときには、政治を皇后と皇太子に委任して。朱鳥元年・天武13年(686年)天武天皇は崩御しました。[日本書紀]草壁皇子が次代となるのは当然と思えるでしょう。[日本書紀]

天皇陵の写真

持統天皇(2)に続く

皇極・斉明天皇(2)中大兄皇子の母・古代女性天皇

古代の女帝についてまだまだわからないことは多いと思います。皇極・斉明天皇は推古天皇に次ぐ、皇位に就いた女性天皇です。推古天皇と同様、先に大王(おおきみ 天皇)の大后(おおきさき 皇后)となり、皇統の長老格として即位しました。乙巳の変をはさんで、二度即位しています。第2回として皇極天皇の時代の後半について解説していきます。現代の女性天皇女系天皇に関する論議を理解する上で、とても参考になるはずです。

相次ぐ政変

  皇極天皇の治世に政変が相次ぎます。順番に解説していきます。

皇統の収斂と乙巳の変 聖徳太子の子孫断絶

  激動する東アジアと、連動するようにヤマト王権の中でも、異変が起こります。まず、次期天皇として、古人大兄皇子を推す蘇我氏による、上宮王家(厩戸皇子の系統は斑鳩に住み、上宮王家と呼ばれていた)急襲です。

  厩戸皇子とともに推古天皇を補佐していた蘇我馬子はすでになく、子の蘇我蝦夷は何らかの事情で実務をそのさらに子の入鹿に譲っていました。この事件は、蘇我入鹿によって引き起こされたと書紀にはあります。蘇我蝦夷は、上宮王家滅亡後激しく動揺した様子でした。[日本書紀]

  上宮王家について詳しいことはわかっていませんが、厩戸皇子の子である山背大兄王はかなり有力な皇位継承者であったことは間違いありません。厩戸皇子から継承した荘園群も持ち経済的にも力がありました。[吉川真司、2024]

  上宮王家討滅は、皇位を蘇我氏に母に持つ古人大兄皇子に引き付けるための工作でした。山背大兄王の母も蘇我馬子の娘なのですが、なんらかの齟齬があったことが想像できます。皇極2年(643年)のこの事件により厩戸皇子の系統は断絶させられました。上宮王家の資産は法隆寺に継承されています。

乙巳の変(大化の改新

  さらに、皇極4年(645年)、ご存知の乙巳の変が起こります。中大兄皇子らによる蘇我氏宗本家討伐です。皇極天皇の御前で、蘇我入鹿は殺され、入鹿の父・蝦夷は翌日。その邸に火を放ち自死しました。[日本書紀]

  こうして、上宮王家系・蘇我氏系、ふたつの皇統が皇位継承から葬られました。

  激動する東アジア情勢の中、不安定な皇統は許されず、天皇に権力を集中しなければならなかったのです。私が思うに、残るのは上宮王家でも、蘇我系でもかまわなかったのではないでしょうか。崇峻天皇を暗殺した蘇我氏が中大兄皇子暗殺を企図していなかったのはなぜでしょう。

  たぶん、中大兄皇子は当時の即位年齢から考えて若すぎたため、蘇我氏側は焦っていなかったのでしょう。蘇我入鹿は、時の帝は皇極天皇その人であることを、考慮したのかもしれません。とはいえ、「まず、上宮王家殲滅」この論理は皇極天皇なくしては生まれなかったものかもしれません。[吉川真司、2011年]

皇極天皇廃位 (天皇廃位)

  乙巳の変は、宮廷クーデターといってよいでしょう。この結果、蘇我氏の傀儡という面もあった皇極天皇は「廃位」されました。この事件による「史上初の譲位」というのは言い方がマイルド過ぎると感じます。皇極天皇は、クーデターを起こした当の中大兄皇子の母でなければ、蘇我宗本家とともに殺されていたかもしれません。乙巳の変後の一連の改革が「大化の改新」です。[吉川真司、2011年]

  乙巳の変のとき中大兄皇子はまだ若すぎました。そこで宝皇女(皇極天皇)の同母弟、軽皇子が第36代孝徳天皇として即位しました。軽皇子は、宝皇女同様、王孫に過ぎず、本来は皇位から遠い人物でした。しかし、皇極天皇の弟という身分を得て、皇族内での地位に変化があったのでしょう。書紀によると、舒明天皇の誄(しのびごと 亡き人の生前の功績・功徳などをたたえる儀式的な送り言葉)の任にあたっています。公的な場でのプレーヤーになっていました。

  孝徳天皇は中大兄皇子の世代の有力皇子が、若すぎる中大兄皇子以外ほぼいなくなり、皇族の重鎮として即位したと思われます。[藤森健太郎、2024]このとき「若すぎる」中大兄皇子は皇太子となりました。

孝徳天皇(第36代 在位645~655年)

  孝徳天皇は、中大兄皇子・中臣鎌足らの完全な傀儡であったわけではありません。前代までの飛鳥から都を古代の大港である難波に移し、外交を中心に積極的な政治を行いました。大化の改新のメインプレイヤーの一人です。

  先述したとおり、難しい東アジア情勢において、外交は最優先事項といえました。難波宮は、飛鳥に代々営まれていた宮城に比べ、壮大な建築でもあります。[吉川真司、2011年][市大樹、2019] 所謂、大化の改新は孝徳天皇と中大兄皇子・中臣鎌足によって行われたといっていいでしょう。

  白雉4年(653年)、事件が起こります。十分に成長した、あるいは歳を重ねた中大兄皇子が、前天皇・孝徳天皇の大后間人皇女ほか、皇族・有力貴族・官人らと共に、飛鳥に移動してしまったのです。この出来事の確たる理由を、書紀は語りません。しかし、国政の主導権は、孝徳天皇から中大兄皇子に完全に移ったのでしょう。翌年、孝徳天皇は難波宮で崩御しました。[日本書紀]

斉明天皇(第37代 在位655~661年)としての重祚

  ここで、現代人の感覚であれば、即座に中大兄皇子の即位が予想されるでしょう。しかし、中大兄皇子の親世代の有力皇族として先の天皇であり、大后経験者である宝皇女がまだ存在しています。

  斉明天皇としての重祚(譲位した天皇が再び即位すること)は、王家の宗主としての即位といえるでしょう。皇極天皇は「廃位」から、10年ののち斉明天皇として、655年即位しました。引き続き皇太子は中大兄皇子であり、実権は彼が握ったと考えられます。[藤氏家伝、2019]

  上古の王権は、本来個人に付与され、死ぬまで保ち続ける性格のものでした。これは、世界史レベルで見ても、本来の王権のあり方です。王は死ぬまで王であり、逆に殺せば王ではなくなります。王の死なくして、次代の王は即位できません。皇極天皇の「廃位」は極めて異例といっていいでしょう。

  また、この「廃位」「重祚」の例は、のちの時代に「先例」とされ、日本独特の王権のありかたに繋がっていきます。

  斉明天皇としての即位は、本来の王権に戻ったと考えてよいでしょう。実権は中大兄皇子が握っていましたが、斉明天皇の宮城として、豪壮な宮城が飛鳥の地に建てられました。飛鳥板蓋(いたぶき)宮と、この宮が火災にあってのちに建てた後飛鳥岡本宮です。斉明天皇は後飛鳥岡本宮の周辺も整備し、本格的都城に先立つ倭京を作り上げていきました。[市大樹、2019]

  数々の建築と、不思議な石製立像などは、当時の民衆から揶揄されながらも、斉明天皇の事績といえるでしょう。

  斉明天皇の時代で特筆すべきは、半島への出兵でしょう。半島にあった、高句麗・百済・新羅のうち、まず百済が唐と新羅に攻め滅ぼされました。百済の遺臣は、質として日本にいた王族を王として、百済再興を目指します。そのために、倭国に救援を請いました。倭国側にどれだけの現実認識ができていたかは不明です。斉明5年の遣唐使は、長安に足止めされており、情報は不十分でした。[日本書紀] 唐に情報操作されていたといえるでしょう。

崩御

  斉明7年(661年)、百済の要請を日本は受諾しました。斉明天皇自ら軍を率いるかたちで、北九州に出発します。額田王の「熟田津の」の歌はこのときのものです。しかし、この年、斉明天皇は北九州の仮宮で崩御しました。皇族の重鎮であることに振り回されたがごときの一生ではなかったでしょうか。

  2010年、牽牛子塚古墳が斉明天皇の陵である可能性が発表されました。間人皇女・天智天皇の皇女、大田皇女も近くに埋葬されています。[吉川真司、2011年]

皇極・斉明天皇(1)

皇極天皇

皇極・斉明天皇(第35代在位642~645年 第37代655~661年)

古代の女帝についてなんとなく、難しいという感がありますね。皇極・斉明天皇は推古天皇に次ぐ、皇位に就いた女性天皇です。推古天皇と同様、先に大王(おおきみ 天皇)の大后(おおきさき 皇后)となり、皇統の長老格として即位しました。乙巳の変をはさんで、二度即位しています。まず、即位までの背景と、皇極天皇の時代の前半について解説していきます。現代の天皇制について、ご理解を深めることになれば、幸いです。

前記

  推古天皇崩御ののちは、蘇我氏を味方につけた田村皇子が山背大兄王を抑えて皇位に就きました。第34代舒明天皇です。舒明天皇の時代、隋から唐へと王朝の替わった大陸に、第一回遣唐使を派遣しています。舒明天皇はその即位の際、蘇我氏の強い後見があったため、実権はあまりなかったとされています。[日本書紀]

皇極天皇即位まで

  皇極天皇は諱を宝皇女(たからのひめみこ)といい、敏達天皇孫・茅渟王を父に、欽明天皇孫・吉備王を母に推古2年(594年)に生まれました。はじめ皇族の高向王と結婚し、漢皇子を産んでいます。なお、漢皇子は初めから「皇子」であったわけではなく、書紀記載時に皇極天皇の子であったことから「皇子」と記載されたとみられます。

  のち、舒明天皇と結婚し大后に立てられました。また、茅渟王は舒明天皇の異母兄弟で、いずれも皇族内で、しかも押坂彦人大兄皇子の皇統で、結婚が行われていることに留意。舒明天皇との結婚後、中大兄皇子(天智天皇)・大海人皇子(天武天皇)・間人皇女(孝徳天皇大后)を産んでいます。

皇極天皇即位

  宝皇女は、記紀では「皇女」と呼ばれていますが、本来孫王にすぎず大后でなければ皇位につくような立場ではありません。しかし、夫・舒明天皇崩御時、次世代の有力な皇子として山背大兄王(厩戸皇子の子)・中大兄皇子(舒明=皇極の子)・古人大兄皇子(舒明=蘇我馬子の娘の子)がいましたが、いずれも若年でした。古代前期では、一般的に30歳に満たないで天皇に即位することはありません。

  彼らの成長を待つべく、宝皇女は皇族・先の大后という立場で第35代皇極天皇として皇位についたのです。642年1月のことでした。皇極天皇としては、実の子である中大兄皇子の成長を待つという意味が強かったかもしれません。[吉川真司、2011年] 皇極天皇にはこののち、孝徳天皇として皇位につく弟がありましたが、皇極即位以前には立場が軽すぎて皇位を望む地位を持ちませんでした。

  書紀によれば、皇極即位後間もなく、半島から複数の使者がやって来ました。そして、高句麗と百済の政変が知らされます。少し前に、中華の王朝も隋から唐へと替わっています。推古天皇のとき同様に東アジアは激動の時代であったといえるでしょう。若年の皇子が、このような状況で即位できないのは、推古天皇の項でみてきたとおりです。

  皇極元年(642年)、百済の使節を招いた饗宴で、史上初の相撲節会(すまいのせちえ)が行われました。また、同年、干ばつとなり、僧尼を含む人々が雨乞いをしたが、雨が降りませんでした。そこで、皇極天皇が四方を拝すると、大雨となったと伝わります。ヒメ王としての面目躍如です。しかし、これら書紀の記述からは、皇極天皇が主体的に政務を執った様子はあまりうかがえません。[日本書紀]

  政治の主導権は、蘇我蝦夷入鹿親子にあったとみられます。乙巳の変を行った側・勝者の立場から「日本書紀」は書かれているため、蘇我氏の専横が、果たしてどこまで大臣(おおおみ)の立場から逸脱していたのかは、正直、不明ですが。

(2)に続きます。

ヒメヒコ制

 

 漢倭奴国王・倭国王帥升・卑弥呼が大陸の史書に表れるのは、弥生時代末期から古墳時代への移行期のできごとです。

  古代、政治は「まつりごと」と呼ばれ、神を祀ることと同一視されていました。現代に残る、伝統的社会では現在でも見られる現象です。このため、神を降ろせなければ、政治は行えません。

  日本では、女性のシャーマンが祭司となり、その近親の男子が政治・軍事を司る、ヒメヒコ制が広く認められるとされています。ヒメが宗教・呪術を行い、ヒコが行政・軍事・財政を担うという形です。ヒメヒコ制では男女双系の王権が成立していたと考えられます。

  余談ですが、ローマ帝国皇帝は最高神祇官も兼務していました。神祇と政治が一体化しているのは、洋の東西は問わない現象です。シャーマニズム・神祇官・神官制度、いろいろな形が世界中にありました。

  ヒメヒコ制的な統治はその後も見られ、後述する女性天皇にも対応する「ヒコ」が、見られるケースもあります。(推古天皇=聖徳太子・皇極天皇=中大兄皇子など)

  一方、日本全国の古墳の主な被葬者として、一定数の女性が認められることから、この時代に「女王」もしくは「女性首長」がいたことは間違いないところです。戦争が常態になると、女性首長は減少していきます。卑弥呼のような、統合の象徴的意味合いを持つ女王はいたかもしれませんが。古墳の副葬品として、女性の場合は祭祀具、男性の場合は武具が多く認められることは要注意です。[岩永、2024]

  また、現在残っている風土記にも、各地の女性首長の名が見えます。[風土記]

卑弥呼以前の倭国

背景

  ヤマト王権以前の日本は、中国からは「倭」と呼ばれ、小さいクニが数多くありました。「倭」というのは「野蛮な小さい人々」といった意味です。中華の帝国に名付けられた、蔑称でもあります。いくつかの王権が中国の漢・魏(三国時代)に使節を送っていたことから、その存在が知られているのです。

  漢に使者を送った奴国(なこく)が授与さえた漢倭奴国王の金印は、漢書東夷伝に記録がある、印綬とするのが一般的です。[漢書 1998] この金印は江戸時代に、福岡県志賀島で発見され、福岡藩主・黒田家が長く保持していました。現在は、福岡市博物館に保管・展示されています。

  奴国が存在していたころは、弥生時代から古墳時代前期にあたります。考古学的資料から、奴国・伊都国などのクニは大き目の集落とそれに付属する田畑といった認識が適当でしょう。

  余談ですが、奴国の所在地は完全に確定できていませんが、伊都国は現在の福岡県糸島市にあったことが、ほぼ確実です。この地は、長く要衝の地であり怡土とも呼ばれ、度々城が作られました。南北朝時代・戦国時代にも城がおかれていあることが確認できます。

  次に中国の資料に表れるのが、「後漢書」の倭国王帥升(すいしょう)の朝貢です。紀元108年に、帥升自ら、朝貢し生口(戦争奴隷か?)を時の漢皇帝、安帝に奉っています。[後漢書]

  このあとも、度々、中華の史書を引用するので、ここでちょっと解説。中国の史書は、前漢(紀元前206年 – 8年)の司馬遷による史記を嚆矢とします。史記では、当代の武帝までが描かれました。しかし、以降の史書は、新しい王朝が立てられたあと、前王朝のものが書かれるのが一般的となりますた。例えば、隋書は、唐の太宗の命で編纂されています。

卑弥呼

 魏志倭人伝

次に、大陸の資料に表れる、倭国王が卑弥呼です。よく知られた魏志倭人伝にその名が表れます。「魏志倭人伝」とは、その名のひとつの書物であるわけではありません。史書「三国志」の中の「魏書」にある「烏丸鮮卑東夷伝」に書かれた倭人の項目が「魏志倭人伝」と呼ばれているのです。

  お気づきだとは思いますが、「三国志」はあの、劉備・関羽・張飛・曹操らが活躍する時代の史書です。三国とは魏・呉・蜀。魏は曹操によって建てられた国ですが、曹操自身は皇帝位には就いていません。中国北東部を支配しました。

  卑弥呼については、別の投稿がありますので、そちらをご覧ください。

伝説的女帝

倭国伝説的女帝

神功皇后三韓征伐
神功皇后三韓征伐 武内桂舟

記紀に記載されているが、存在が確認されていない女性天皇として神功皇后が考えられます。記紀においても「天皇」とはされていないが、同列に扱われています。

神功皇后

神功皇后は、第14代仲哀天皇の皇后とされます。日本書紀(以下、「書紀」)によると、仲哀天皇は熊襲討伐のため九州に渡りました。そこで、神寄(かみよせ)の楽器演奏を行ったところ、キサキである神功皇后に神が降ります。神は、朝鮮半島への出兵を促しました。しかし、仲哀天皇は、朝鮮半島への進攻を行わずに、九州で崩御なさいました。神の命に背いたからでしょうか。

神功皇后は第9代開化天皇の子孫でした。仲哀天皇の子を身ごもったまま、神託に従って半島に渡り、財の国を得ます。これが三韓でした。朝鮮半島の南の先の一部でしょう。帰国後、神功皇后が産んだ皇子が、第15代応神天皇となります。神功皇后は7世紀に成立です漢風諡号を追贈されていないため、厳密には天皇とは言えないかもしれません。しかし、書紀に巻第9を丸々占めていることから、ここでは上古の天皇として数えました。江戸時代までは第15代天皇とされ、一説には「神功天皇」ともいわれたようです。   

ヤマト王権以前の倭の女王

卑弥呼

ヤマト王権以前

  ヤマト王権以前の日本は、中国からは「倭」と呼ばれ、小さいクニが数多くありました。いくつかの王権が中国の漢・魏(三国時代)に使節を送っていたことから、その存在を知ることができます。その頃、実際の日本は弥生時代から古墳時代前期にあたることを、知っておいてください。

卑弥呼

  この時代の「女王」としては、卑弥呼がよく知られています。卑弥呼の「邪馬台国」は「ヤマト国」と読むこともできますが、ヤマト王権に直接つながるものではないでしょう。根拠として、魏志倭人伝に卑弥呼の記載があることを承知で、編纂された記紀に、その存在が載せられていないことが挙げられるます。ただし、神功皇后がそのひとであるとも記されていることは要注意。

  卑弥呼は238年ころ、魏に使者を送り、魏の2代皇帝・明皇帝から親魏倭王と認められ、金の印綬と銅鏡100枚を賜りました。[魏書]

  神功皇后は記紀では「皇后」であとされていますが、「神皇正統記」などでは、女帝とされていたため、明治時代になるまで第15代天皇とされていました。しかし、「○○天皇」といった諡号はありません。上古の天皇に漢風諡号を贈った淡海三舟によって「神功皇后」とされています。神功皇后については改めて、詳しく解説しましょう。

  卑弥呼は「鬼道」を使ったと魏書にあることから、シャーマンであったと考えられます。男兄弟がその政治を援けていたことも知られ、のちの女性皇族に、しばしば、神が降りることを考えると、女性首長の原型ともいえるでしょう。

  卑弥呼が即位するまで、倭国では乱が多く(倭国大乱)、シャーマン卑弥呼を推戴することで、乱は治まったとされます。この時代は、世界的に寒冷化しており、食糧不足から動乱が起こりやすかったと考えられるでしょう。[山本武夫、1972] [岡本隆司、2019] 大陸での三国動乱も、同じ文脈から説明できます。

  倭国では、いくつかのクニが同君連合を作ったとみられます。また、卑弥呼の死後には男王が立ちましたが、やはり乱となり卑弥呼の宗女(養女・跡継ぎと思われる)で、卑弥呼同様シャーマンの登与13歳を女王として立てたことで、平和が戻りました。[魏志倭人伝 2014] 数え歳の13歳ですから、卑弥呼以上にシャーマンであった可能性が高いと思われます。

  卑弥呼は生涯不婚でした。[魏志倭人伝 2014] 人前には姿を見せない[魏志倭人伝 2014] 女性であったので、確証はないわけですが、不婚とされていることには神秘性が伴ったと考えられます。このことが、のちの女性天皇の不婚と関わりがあったかもしれません。

  これらは、弥生時代か古墳時代への移行期のできごとです。古代、政治は「まつりごと」と呼ばれ、神を祀ることと同一視されていました。このため、神を降ろせなければ、政治は行えません「。日本では、女性のシャーマンが祭司となり、その近親者である男子が政治・軍事を司る、ヒメヒコ制が広く認められるとされています。

  これらのことから、この時代に「女王」もしくは「女性首長」がいたことは間違いないところでしょう。戦争が常態になると、女性首長は減少していきます。古墳の副葬品として、女性の場合は祭祀具、男性の場合は武具が多く認められることは要注意です。[岩永、2024]