卑弥呼以前の倭国

背景

  ヤマト王権以前の日本は、中国からは「倭」と呼ばれ、小さいクニが数多くありました。「倭」というのは「野蛮な小さい人々」といった意味です。中華の帝国に名付けられた、蔑称でもあります。いくつかの王権が中国の漢・魏(三国時代)に使節を送っていたことから、その存在が知られているのです。

  漢に使者を送った奴国(なこく)が授与さえた漢倭奴国王の金印は、漢書東夷伝に記録がある、印綬とするのが一般的です。[漢書 1998] この金印は江戸時代に、福岡県志賀島で発見され、福岡藩主・黒田家が長く保持していました。現在は、福岡市博物館に保管・展示されています。

  奴国が存在していたころは、弥生時代から古墳時代前期にあたります。考古学的資料から、奴国・伊都国などのクニは大き目の集落とそれに付属する田畑といった認識が適当でしょう。

  余談ですが、奴国の所在地は完全に確定できていませんが、伊都国は現在の福岡県糸島市にあったことが、ほぼ確実です。この地は、長く要衝の地であり怡土とも呼ばれ、度々城が作られました。南北朝時代・戦国時代にも城がおかれていあることが確認できます。

  次に中国の資料に表れるのが、「後漢書」の倭国王帥升(すいしょう)の朝貢です。紀元108年に、帥升自ら、朝貢し生口(戦争奴隷か?)を時の漢皇帝、安帝に奉っています。[後漢書]

  このあとも、度々、中華の史書を引用するので、ここでちょっと解説。中国の史書は、前漢(紀元前206年 – 8年)の司馬遷による史記を嚆矢とします。史記では、当代の武帝までが描かれました。しかし、以降の史書は、新しい王朝が立てられたあと、前王朝のものが書かれるのが一般的となりますた。例えば、隋書は、唐の太宗の命で編纂されています。

卑弥呼

 魏志倭人伝

次に、大陸の資料に表れる、倭国王が卑弥呼です。よく知られた魏志倭人伝にその名が表れます。「魏志倭人伝」とは、その名のひとつの書物であるわけではありません。史書「三国志」の中の「魏書」にある「烏丸鮮卑東夷伝」に書かれた倭人の項目が「魏志倭人伝」と呼ばれているのです。

  お気づきだとは思いますが、「三国志」はあの、劉備・関羽・張飛・曹操らが活躍する時代の史書です。三国とは魏・呉・蜀。魏は曹操によって建てられた国ですが、曹操自身は皇帝位には就いていません。中国北東部を支配しました。

  卑弥呼については、別の投稿がありますので、そちらをご覧ください。