推古天皇 聖徳太子と蘇我馬子とともに

天皇号を諡された最初の女帝

土佐光芳 画・叡福寺 蔵
土佐光芳 画・叡福寺 蔵

推古天皇(在位593~628年)

  推古天皇と言えば、聖徳太子蘇我氏との関連を思い浮かべる方も多いでしょう。推古天皇は、日本(当時は倭国)の最初の女性君主です。推古天皇の治世では、冠位十二階十七条憲法が制定され、遣隋使が派遣されました。その推古天皇について詳しく考察します。

推古天皇までの皇統

   推古天皇は、新王統ともいえる継体天皇の子世代である、欽明天皇の皇女で母は蘇我氏の堅塩姫(きたしひめ)です。日本書紀によると、欽明2年(541年)の生まれとなってます。この世代では、欽明天皇のそれぞれ違うキサキから生まれた、皇子が、順に用明・崇峻・敏達各天皇として即位していきました。この世代の、有力皇子はここに尽きてしまいます。

   

大后(皇后)

   本来なら、次の世代の男子に皇統は続くはずでした。しかし、候補である、用明天皇の皇子である厩戸皇子(聖徳太子はのちの世に贈られた尊称)・敏達天皇の皇子である押坂彦人大兄皇子・敏達推古両天皇の皇子である竹田皇子のいずれも若年でした。また、候補たる、それぞれの皇子に違う後見がついていたため、若年の皇子に皇位を継承させると紛争が起こる可能性も高くなります。

  • 厩戸皇子(聖徳太子)父・用明天皇 母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女
  • 押坂彦人大兄皇子 父・敏達天皇 母・広姫
  • 竹田皇子 父・敏達天皇 母・額田王(のちの推古天皇)
聖徳太子 イラスト

  

   そこで、彼らの親世代に属し、敏達天皇の大后(のちの皇后)として政治経験が十分にある、用明天皇の同母キョウダイである額田王が即位することとなりました。大后というのはかなり発言力・政治力のある存在だったのです。のちの奈良時代の記録によれば、宮中祭祀にも大きく関わっていたとされます。[大津透 2017]

群臣(まえつきみ)たちによる推戴

   この時代、皇位は前天皇が決めるものでも、法律で決まっているものでもありませんでした。皇族にもさほど大きな発言権はありません。あくまでも群臣(まえつきみ・各氏の長たち)の合議の上、推戴されるものでした。

   前述の皇子たちの状況と、推古天皇の十分な経歴から群臣から推戴されたわけです。[藤森健太郎、2024] 女性の天皇(大王)は、倭国の伝統としては、あまり抵抗感がなかったように思えます。

   推古天皇が政務を執るうちに、先に挙げた皇子たちも成長してきました。しかし、当時は譲位という慣習はなく、推古天皇は崩御するまでその位にあり、先の皇子たちよりも後まで生きることになる。王の終身制というのは世界中で見られるものです。そのため、この女帝のあと、皇統は孫世代に渡ることとなりました。

推古天皇の事績 聖徳太子と蘇我馬子

   推古天皇の時代の政治的業績は、おおむね厩戸皇子蘇我馬子に負うとされていますが、私はそれだけだとは思いません。継体天皇の皇統の最長老として、推古天皇は大きな力を持っていたに違いないと考えるからです。

   古代日本では、父母双方の血筋・権威が重んじられてもいました。先の大后というだけでも、十分に政治権力を持ち、発言力もあったでしょう。私部(きさいべ)という、家政機関が推古天皇即位前、大后の位にあったとき創設されたことも大きかったはずです。財力も十分でした。[大津透2017]

推古天皇と外交

   

   推古天皇の時代はまた、東部アジアにおいては激動の時代でした。そうであったからこそ、経験が足りない、また内部抗争を起こしかねない皇子の即位は避けられたのです。推古天皇に力がなければ、が中華を統一し急速に力をつけ、半島もあやういバランスであった時代に天皇にはなれなかったでしょう。

   推古8年(600年)には新羅と戦争をしています。また、同年、日本の史書には記録されていない、第一次遣隋使が隋に渡っています。「隋書 倭国伝」に記載が認められ、広く史家の間でも認知されている。[吉川真司、2011年]

十七条憲法 冠位十二階 遣隋使

   これらを、十七条憲法冠位十二階を定めたという厩戸皇子一人の、または臣下である蘇我氏の力だけでできたはずはありません。蘇我馬子は熟年で権力者でしたが、新興貴族です。厩戸皇子は推古8年当時まだ若年で、政治力はあまりなかったのはずです。

   また、推古天皇の時代に書紀に先立つ、史書が編纂されたことも特筆に値します。書紀によると「天皇紀」「国紀」という書名だったようです。

   推古天皇の時代の事績としては、上記のように、対外関係・律令に先立つ憲法・冠位の制定・史書編纂などがありました。推古前期は崇峻天皇暗殺などもあったのであり、皇位は決して安定したものではありません。

推古天皇は、皇嗣に不安を持ち、後述の二皇子に遺言を残して、推古32年(624年)75歳で崩御しました。蘇我氏のサポートがあったとはいえ、長い在位期間でした。[日本書紀]

天皇号の成立

   なお、天皇号の成立は、天智・天武・持統天皇のいずれかの御代であり、史家によって意見が分かれます。ただ例外的に、推古15年(608年)の第三次遣隋使のときの国書に「東の天皇、敬みて(つつしみて)西の皇帝に白す(もうす)」と述べられていたと書紀にあり「天皇」号の初出となります。

   ただし、この国書は「隋書」に残っておらず、書紀成立時の粉飾の可能性は否めません。本ブログでは、便宜的に前代に遡り、天皇号を使用しています。大王としての名はとても長く、読みにくいので。

   推古天皇の皇子である竹田皇子は、おそらく夭折しています。推古天皇は、先に亡くなった竹田皇子との合葬を遺言しているので。また、史上初めて「太子」呼ばれ将来の帝位を約束されていた、厩戸皇子も推古天皇より先に薨御しました。そのため、推古天皇崩御のあとは、厩戸皇子の子である山背大兄王と彦人大兄王の孫である田村皇子との争いになっていきました。[吉川真司、2011年]

なお「古事記」は、推古天皇まで語っています。編纂当時の「古(いにしえ)」は、推古天皇までだったのでしょう。

参考文献

「日本書紀」は、中公文庫2021年発行版を使用しました。