皇極・斉明天皇(1)

皇極天皇

皇極・斉明天皇(第35代在位642~645年 第37代655~661年)

古代の女帝についてなんとなく、難しいという感がありますね。皇極・斉明天皇は推古天皇に次ぐ、皇位に就いた女性天皇です。推古天皇と同様、先に大王(おおきみ 天皇)の大后(おおきさき 皇后)となり、皇統の長老格として即位しました。乙巳の変をはさんで、二度即位しています。まず、即位までの背景と、皇極天皇の時代の前半について解説していきます。現代の天皇制について、ご理解を深めることになれば、幸いです。

前記

  推古天皇崩御ののちは、蘇我氏を味方につけた田村皇子が山背大兄王を抑えて皇位に就きました。第34代舒明天皇です。舒明天皇の時代、隋から唐へと王朝の替わった大陸に、第一回遣唐使を派遣しています。舒明天皇はその即位の際、蘇我氏の強い後見があったため、実権はあまりなかったとされています。[日本書紀]

皇極天皇即位まで

  皇極天皇は諱を宝皇女(たからのひめみこ)といい、敏達天皇孫・茅渟王を父に、欽明天皇孫・吉備王を母に推古2年(594年)に生まれました。はじめ皇族の高向王と結婚し、漢皇子を産んでいます。なお、漢皇子は初めから「皇子」であったわけではなく、書紀記載時に皇極天皇の子であったことから「皇子」と記載されたとみられます。

  のち、舒明天皇と結婚し大后に立てられました。また、茅渟王は舒明天皇の異母兄弟で、いずれも皇族内で、しかも押坂彦人大兄皇子の皇統で、結婚が行われていることに留意。舒明天皇との結婚後、中大兄皇子(天智天皇)・大海人皇子(天武天皇)・間人皇女(孝徳天皇大后)を産んでいます。

皇極天皇即位

  宝皇女は、記紀では「皇女」と呼ばれていますが、本来孫王にすぎず大后でなければ皇位につくような立場ではありません。しかし、夫・舒明天皇崩御時、次世代の有力な皇子として山背大兄王(厩戸皇子の子)・中大兄皇子(舒明=皇極の子)・古人大兄皇子(舒明=蘇我馬子の娘の子)がいましたが、いずれも若年でした。古代前期では、一般的に30歳に満たないで天皇に即位することはありません。

  彼らの成長を待つべく、宝皇女は皇族・先の大后という立場で第35代皇極天皇として皇位についたのです。642年1月のことでした。皇極天皇としては、実の子である中大兄皇子の成長を待つという意味が強かったかもしれません。[吉川真司、2011年] 皇極天皇にはこののち、孝徳天皇として皇位につく弟がありましたが、皇極即位以前には立場が軽すぎて皇位を望む地位を持ちませんでした。

  書紀によれば、皇極即位後間もなく、半島から複数の使者がやって来ました。そして、高句麗と百済の政変が知らされます。少し前に、中華の王朝も隋から唐へと替わっています。推古天皇のとき同様に東アジアは激動の時代であったといえるでしょう。若年の皇子が、このような状況で即位できないのは、推古天皇の項でみてきたとおりです。

  皇極元年(642年)、百済の使節を招いた饗宴で、史上初の相撲節会(すまいのせちえ)が行われました。また、同年、干ばつとなり、僧尼を含む人々が雨乞いをしたが、雨が降りませんでした。そこで、皇極天皇が四方を拝すると、大雨となったと伝わります。ヒメ王としての面目躍如です。しかし、これら書紀の記述からは、皇極天皇が主体的に政務を執った様子はあまりうかがえません。[日本書紀]

  政治の主導権は、蘇我蝦夷入鹿親子にあったとみられます。乙巳の変を行った側・勝者の立場から「日本書紀」は書かれているため、蘇我氏の専横が、果たしてどこまで大臣(おおおみ)の立場から逸脱していたのかは、正直、不明ですが。

(2)に続きます。