
ヤマト王権以前
ヤマト王権以前の日本は、中国からは「倭」と呼ばれ、小さいクニが数多くありました。いくつかの王権が中国の漢・魏(三国時代)に使節を送っていたことから、その存在を知ることができます。その頃、実際の日本は弥生時代から古墳時代前期にあたることを、知っておいてください。
卑弥呼
この時代の「女王」としては、卑弥呼がよく知られています。卑弥呼の「邪馬台国」は「ヤマト国」と読むこともできますが、ヤマト王権に直接つながるものではないでしょう。根拠として、魏志倭人伝に卑弥呼の記載があることを承知で、編纂された記紀に、その存在が載せられていないことが挙げられるます。ただし、神功皇后がそのひとであるとも記されていることは要注意。
卑弥呼は238年ころ、魏に使者を送り、魏の2代皇帝・明皇帝から親魏倭王と認められ、金の印綬と銅鏡100枚を賜りました。[魏書]
神功皇后は記紀では「皇后」であとされていますが、「神皇正統記」などでは、女帝とされていたため、明治時代になるまで第15代天皇とされていました。しかし、「○○天皇」といった諡号はありません。上古の天皇に漢風諡号を贈った淡海三舟によって「神功皇后」とされています。神功皇后については改めて、詳しく解説しましょう。
卑弥呼は「鬼道」を使ったと魏書にあることから、シャーマンであったと考えられます。男兄弟がその政治を援けていたことも知られ、のちの女性皇族に、しばしば、神が降りることを考えると、女性首長の原型ともいえるでしょう。
卑弥呼が即位するまで、倭国では乱が多く(倭国大乱)、シャーマン卑弥呼を推戴することで、乱は治まったとされます。この時代は、世界的に寒冷化しており、食糧不足から動乱が起こりやすかったと考えられるでしょう。[山本武夫、1972] [岡本隆司、2019] 大陸での三国動乱も、同じ文脈から説明できます。
倭国では、いくつかのクニが同君連合を作ったとみられます。また、卑弥呼の死後には男王が立ちましたが、やはり乱となり卑弥呼の宗女(養女・跡継ぎと思われる)で、卑弥呼同様シャーマンの登与13歳を女王として立てたことで、平和が戻りました。[魏志倭人伝 2014] 数え歳の13歳ですから、卑弥呼以上にシャーマンであった可能性が高いと思われます。
卑弥呼は生涯不婚でした。[魏志倭人伝 2014] 人前には姿を見せない[魏志倭人伝 2014] 女性であったので、確証はないわけですが、不婚とされていることには神秘性が伴ったと考えられます。このことが、のちの女性天皇の不婚と関わりがあったかもしれません。
これらは、弥生時代か古墳時代への移行期のできごとです。古代、政治は「まつりごと」と呼ばれ、神を祀ることと同一視されていました。このため、神を降ろせなければ、政治は行えません「。日本では、女性のシャーマンが祭司となり、その近親者である男子が政治・軍事を司る、ヒメヒコ制が広く認められるとされています。
これらのことから、この時代に「女王」もしくは「女性首長」がいたことは間違いないところでしょう。戦争が常態になると、女性首長は減少していきます。古墳の副葬品として、女性の場合は祭祀具、男性の場合は武具が多く認められることは要注意です。[岩永、2024]
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