持統天皇 天武天皇とともにあった女性天皇

持統天皇のイラスト

天武天皇の即位まで

持統天皇は諱(いみな)を鵜野讚良皇女(うののさららのひめみこ)といい、天智天皇と蘇我倉山田石川麻呂の娘、越智娘(おちのいらつめ)の子として生まれました。同母姉に大田皇女がいます。大田皇女も、天武天皇と結婚しています。持統天皇は、享年からの計算で、斉明1年・大化元年(645年)の生まれとなります。即位前の天武天皇のキサキとなり、やはりその即位以前に草壁皇子を産みました。[日本書紀] この、草壁皇子の、キサキや子孫が奈良時代の皇統の主流を歩みます。

鵜野皇女は、天武天皇が即位すると間もなく、皇后に立てられました。卑母から生まれた高市皇子に次ぐ、第二皇子草壁皇子の母であったこと、天智天皇の娘であったこと、蘇我氏の後見があったことなどが皇后とされた所以でしょう。

同母姉に天武天皇のキサキとなった大田皇女がいましたが、第三皇子大津皇子と天武期に伊勢斎王となる大来皇女を産んだものの、早くに亡くなっています。このことも、鵜野皇女を皇后位へと押し上げる要因となりました。

なお、天皇号・皇后号・皇太子号の成立が確実視される、この項より大后を皇后と呼ぶことにします。大后には、皇族しかなることができませんでしたが、この先、皇后には藤原氏をはじめとした、臣下の女性が就くこともあります。

鵜野皇女は大海人皇子時代の天武天皇に従い、半島への出兵の際には北九州に、壬申の乱当時も常に側にいたといわれます。大海人皇子の信任の特に厚いキサキでした。

天武天皇のイラスト

天武天皇の時代

天武2年(673年)大海人皇子が大友皇子を下して、即位すると、鵜野皇女は皇后に冊立されました。[日本書紀]

書紀によると、天武8年(679年)の「吉野の盟約」を経て、天武10年(681年)には、皇后である鵜野皇女の子草壁皇子が立太子します。天武天皇は晩年病みついたときには、政治を皇后と皇太子に委任して。朱鳥元年・天武13年(686年)天武天皇は崩御しました。[日本書紀]草壁皇子が次代となるのは当然と思えるでしょう。[日本書紀]

天皇陵の写真

持統天皇(2)に続く

投稿者: 萩原 湖穂

サイエンスライター 理学修士 日本歴史学会会員

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