即位

天武天皇の崩御後、草壁皇子の即位は、簡単ではありませんでした。まず、天武天皇の第三皇子、皇后の同母網所生の大津皇子が非常に優秀であったことがあります。編纂時期から持統=草壁を忖度していたはずの、書紀の編者たちが、記し置くほどの優秀さなのでした。文筆を愛し、詩賦が盛んになったのは彼からだ、とまで書かれています。[日本書紀]
そこで、鵜野皇后が動きます。書紀には、大津皇子が皇太子に謀反を企て、死を賜ったと記されています。[日本書紀]
さらに事態は変動していきます。偉大だった前天皇、天武の葬送の儀式を長く執り行っている過程で、草壁皇子が亡くなってしまいました。持統(称制)3年、27歳での若すぎる死です。[日本書紀]
この時点で、天皇の詔として残っているのは、故天武天皇の「皇后と皇太子に政務を任せる」というもので、国政の主権は皇后であった鵜野皇后ひとりにあったといえます。壬申の乱を勝利した天武天皇を補佐した、高市皇子は卑母を持つため即位できず、ここに鵜野皇后が持統天皇として即位することとなりました。
持統天皇は天武天皇が病床にあったときから、国政の実権を握っていたのであり父は天智天皇。実績も申し分なく、最有力皇族であったともいえます。この時代の皇后は、ヒメヒコ制の名残も色濃く、平安時代の皇后のように後宮の奥深くにいたわけではありませんでした。先の述べたように、皇后は天皇と同列に詔を出す立場だったのです。[日本書紀]
持統天皇は即位に先立ち、天武天皇が制定を命じた飛鳥浄御原令を施行しています。飛鳥浄御原令の中で、初めて「天皇」号が記載されており、持統天皇の時代までに天皇号がポピュラーなものになっていたことが確認できます。[日本書紀]
律令と天皇については、ひとつ注意が必要でしょう。律令はあくまで皇族・貴族・庶民の法であり、天皇と皇位継承を拘束することはないという点です。[藤森健太郎、2024年] [大津透 2013] これまで、基本的に群臣の推戴を必要としてきたことを考えると、王権の高まりを感じます。

持統称制5年(690年)正月、持統天皇の即位儀が行われました。書紀には、天武天皇の即位儀とともに、詳細な記録が残されています。飛鳥浄御原令を受けてか、天武時から大きく儀式は刷新された様子が書記に書かれています。新たな皇統をうたい上げるかのごとく。持統天皇は実力で即位したのです。
即位後、持統天皇は天武天皇の最年長の皇子であった高市皇子を太政大臣に、丹比嶋真人を右大臣に任じました。太政大臣の任命は、史上、天智期の大友皇子以来ふたりめです。
太政大臣は、唐の三師に倣ったもので、皇太子と同等の権力を持っていたとされます。その任命は、のちの大宝律令によると「その人なければすなわち闕けよ(かけよ)」(適当な人物がいなければ、太政大臣をおかなくてよい)とされ、高市皇子の地位が非常に高かったことを示すといえましょう。[大津透 2013]
なお、太政大臣の地位や権力については、時代によって変遷していきます。皇太子に準ずる場合もあれば、名誉職である場合もありました。
壬申の乱での、高市皇子の功績は大きく、書紀にはさらに彼の有能さを指す文章が度々表れます。[日本書紀]
この時期、持統天皇は皇太子を定めていません。「皇太子制」は、壬申の乱も含めた皇位を争う騒擾を防ぐ制度ですが、持統天皇は自身と天武天皇の皇統にのみ皇位を限定したかったのです。
つまりは、孫である草壁皇子の子、軽皇子の立太子を望んでいましたが、この時代、幼児を皇太子にすることはできません。皇太子に準じる権力を高市皇子に許し、立太子は先延ばしにしました。もし、持統天皇の寿命が早くに尽きることとなっていたら、高市皇子の即位もあり得たかもしれません。