持統天皇の事績
書紀には、持統天皇の事績が多く記載されています。戸籍もそのひとつでしょう。天智天皇の時代に「庚午年籍」が最初の戸籍として作られたとされるが、不完全なものであったようです。[大津透 2017]そこで、持統元年(690年)に、律令の戸令に基づいて戸籍を作ることが命じられました。庚寅年籍と呼ばれるものがそれです[日本書紀]。

これ以降、6年ごとに戸籍は作られ、飛鳥浄御原令に準じて、戸籍に応じて口分田が配給されるようになりました。この時の戸籍は残念ながら資料として残っていません。しかし、次の大宝律令は一次資料が存在しています。[正倉院文書正集、1990] これら戸籍の作成のため、地方文官まで文字を使用しなければならなくなり、文字文化の広がりにも大きな影響を与えました。[鐘江宏之 2020]
筆者には、律令と戸籍について、ひとつ注意を促したい点があります。律令・戸籍は唐の制度に倣ったものでした。にもかかわらず、女性の地位が大陸とは違い、かなり高いという点です。男性の2/3とはいえ、口分田は女性にも与えられています。男性には別に、徭役(労働力・戦力としての義務)があったことを考えれば、ほとんど平等といっていいでしょう。

持統天皇は、貧民の救恤・天災時における税と利子の減免・罪人への大赦などを行いました。壬申の乱と大津皇子を除いた際に、民衆は激しく動揺したため、これらの宥和政策を執ったのかもしれません。また、柿本人麻呂を宮廷歌人とし、多くの天皇を崇める歌を作らせています。[万葉集 2009] さらに、天武天皇時代からの懸案であった、藤原宮都造宮も引き続き牽引し、遂に持統5年(694年)に、その日本初の条坊制宮都に移っています。[市大樹、2019]
持統天皇は、上古の国見に倣ったかのように、御幸を頻繁に行いました。夫・天武天皇の偉業を世に改めて知らしめるためか、皇族に盟約を再認識させるためか、あるいは思い出の地であるからか、吉野への頻繁な御幸が目立ちます。[日本書紀] 吉野はまた、アニミズム的要素もあり、道教・神仏習合の聖地でもありました。

書紀によれば、吉野以外にも、伊勢国・伊賀国・志摩国・紀伊国にも御幸があったようです。万葉集によれば、近江にも御幸しています。[日本書紀] [万葉集]
筆者は、持統天皇を実際、偉大な君主と考えています。ここまでに述べた業績だけでも、見事なものです。大津皇子を退け、飛鳥浄御原令に則り政治を行いました。亡き夫、天武天皇の計画にある程度、沿っているとしても、その手腕は相当なものでした。
伊勢神宮の式年遷宮(ただし、この時期はまだ内宮のみ)が行われるのも持統期からです[日本書紀]。これも、天武天皇の宿願でした。[日本書紀]
持統天皇即位までは、それまでの皇女→皇后→天皇、という前代までの皇位継承ルールにある程度則っています。皇太子とみなされた大友皇子、実際皇太子であった草壁皇子が即位できなかったのは、その早期の死もありますが、年齢等、条件が揃っていなかったともいえるのですから。